草衣大禅師は朝鮮時代後期、沈滞していた当時の仏教界に新しい旋風を巻き起こした禅僧で、かろうじて保たれてきた韓国の茶道を中興させた茶聖である。
深くて明澄な詩、書、画を残し、韓國文化に深く刻まれた草衣禪師は1986年三郷邑旺山里で生まれた。15歳で出家し19歳で霊厳月出山で海の上に昇る十五夜を見ていて大きく悟りを得て禅僧になった。
務安郡は1997年5月文化人物として選ばれたのを契機にして草衣禅師生誕地の顯彰事業を本格的に推進して、生家、追慕閣を復元し、記念展示館、茶文化館、茶歴史館、茶亭などを建立して名実相伴う茶人たちの茶道巡礼聖地として定着してきている。.
ここでは草衣禅師生誕日(陰暦4月5日)の前後に全国の茶人たちが参加する草衣禅師生誕文化祭が毎年開催されている。
草衣は朝鮮正祖10年(1786年)4月5日全南務安郡三郷面旺山里で生まれ、俗姓は興城張氏で名は意恂である。 草衣という号は出家後、師匠の玩虎、倫佑から受けたもので一枝庵は斎号である。
15歳のとき羅州市南平にある雲興寺に出家し19歳の時、海南、大芚寺で玩虎僧から具足戒を受けた。仏画が上手で当代の吳道者の境地に達し韓国最高の近代画家である小痴、許鍊が草衣の門下で絵を習った。書道はまさに天衣無縫だった。康津に流刑中であった茶山、丁若鏞から儒学と詩文を学び阮堂、金正喜など当代の碩学と宗派を越えて教諭した。
39歳のとき大興寺の後ろに一枝庵を増建し、ここで草衣禪、東茶頌、茶神專などを著述した。
55歳(1840年)に憲宗から大覺登階普濟尊者艸衣大宗師という諡号を受けた。58歳(1843年)で故郷を訪れたとき家は崩れて雑草が鬱蒼としている両親の墓を見て涙ながらに詩を作ったのが歸故鄕という詩である。
1866年(高宗3年)7月2日帰寂し世の年81歳で法臘は66歳であった。
住所
全南務安郡三郷邑草衣路30