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見学の旅

Poetry, Calligraphy and Painting

展示館の紹介

초의선사 유물전시관 전경

務安地域では草衣(張意恂)大禅師が務安人だということを知っている人は三郷面出身の地域民と一部の茶に関心がある郡民を除いてはほとんどいなかった。特に草衣禅師が詩、書、画に才能があるだけでなく禅僧であり茶聖として仏教界だけでなく韓国近代文化史に大きな影響を与えた偉大な人物だということは一層知られていなかった。

草衣禅師が偉大な務安人であるのに地域ではその存在さえ知られていないことを知って、自主的に資料収集と顕彰事業を計画していたところ政府が1997年5月の文化人物として草衣禅師を選定したのを契機に禅師の顕彰事業が本格的に推進されることになった。草衣禅師の遺跡地踏査を計画し最初の出家地である羅州茶道の雲興寺と一枝庵を踏査して草衣禅師に対する地域民の理解を深める契機となった。

草衣禅師の生涯

초의선사

草衣は朝鮮正祖10年(1786年)4月5日全南務安郡三郷面旺山里で生まれ、俗姓は興城張氏で名は意恂である。
草衣という号は出家後、師匠の玩虎、倫佑から受けたもので一枝庵は斎号である。
15歳のとき羅州市南平にある雲興寺に出家し19歳の時、海南、大芚寺で玩虎僧から具足戒を受けた。仏画が上手で当代の吳道者の境地に達し韓国最高の近代画家である小痴、許鍊が草衣の門下で絵を習った。書道はまさに天衣無縫だった。康津に流刑中であった茶山、丁若鏞から儒学と詩文を学び阮堂、金正喜など当代の碩学と宗派を越えて教諭した。
39歳のとき大興寺の後ろに一枝庵を増建し、ここで草衣禪、東茶頌、茶神專などを著述した。
55歳(1840年)に憲宗から大覺登階普濟尊者艸衣大宗師という諡号を受けた。58歳(1843年)で故郷を訪れたとき家は崩れて雑草が鬱蒼としている両親の墓を見て涙ながらに詩を作ったのが歸故鄕という詩である。
1866年(高宗3年)7月2日帰寂し世の年81歳で法臘は66歳であった。